Ambivalent and Vague

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Möbius loop 4

Tell me why.
いばらの冠」のつづき


 
 全てを終わらせた撩は、どこかへ連絡を入れた後、すぐにクーパーで香を運んだ。向かった先は、もちろん教授の屋敷だ。
「おぬしの応急処置で程度は軽くなりそうじゃが。……まぁよい、まずは香くんの治療が先じゃ」
「はい、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げたあと、ふたたび顔を上げた撩は神妙な表情のままだった。きっと自分が言おうとしていることも読んでいるのだろう、教授はそう思っている。だからこそ、なにを言われても言い訳はしない雰囲気が撩にはあった。
「撩、香くんの治療は時間がかかる。傷を残したくはないじゃろう?」
「もちろん、それが叶うのなら。……可能ですか?」
 撩がスッと目を伏せた。それが可能であるのなら、自分は提示されたなにもかもに応じるつもりだ。そう、なんだって。
「全力は尽くす。わしだけではなく、かずえくんにも協力してもらった方がええじゃろう。傷の再生は、彼女の方が得意じゃから」
「お任せしますよ。そして、話もあとで聞きます。後始末があるので、離れてもよろしいですか?」
「もちろん。おまえのことじゃ、相当やったんじゃろうよ。冴子くんに怒られんようにな」
「そうですね、小言は甘んじて受けますよ、教授」
 苦笑いした撩は、即座に表情を戻す。そして、音もなくしなやかな動きで部屋を立ち去り、すぐさまクーパーが遠ざかる音が聞こえた。


「まったく、こんなになるのなら、最初から大切にしておけばよかったんじゃよ、ベビーフェイス」
 ふぅと息を吐いたところで、部屋にかずえが入ってくる。準備ができたとの声に、教授も表情を引き締めて部屋を立ち去った。





 撩が再び現場へ戻ると、そこには腕を組んだ冴子が待ち構えていた。
「撩……」
 冴子にいら立ちはないが、どこか諦めたように呆れ顔ではあった。


 撩から連絡を受けた冴子が現場へ到着すると、まずはその凄惨さに驚かされた。十人以上の男たちが全員、体から血を流して倒れている。もちろん、全員が息をしていない。ちょっとした抗争、または内部分裂。状況としてはそれで片付けられそうではあったが、実際は一人の男によって引き起こされたものだ。


「すまないな、冴子。今回ばかりは、おまえの好きにツケを引いていいぞ」
 撩らしからぬ発言に、冴子はどうしたものかと考えをめぐらせる。詳しくは聞いていないが、撩がここまでのことをするからには、きっと香が絡んでいるに違いないのだ。撩自身がどこまで自覚しているのかわからないにしても、香が関係すると撩は容赦がなくなる。できるだけ穏便に済まそうとする最近の撩から、過去の撩が這い出てくるのだ。いや、撩の本質が活発に蠢くともいえるのかもしれない。呼吸をするように、生死を操る男。そこには、なんの感慨もあるはずがない。あるとすれば、香をどうにかされたことによる衝動だろう。撩の本質を眠りから起こす、そんな衝動。
「全員が武器を持ち、あちこちに倒れている。しかも、死因は銃ではなく刃物。状況としては、いかようにもできるわね」
「そうか」
「最近のあなたなら、もっと穏便な方法で済ませられたでしょうに。……香さん、大丈夫なの?」
 撩が体をピクリとさせる。冴子を誤魔化せるはずはないと思っていたが、そっとしておいてくれるのではないかという都合のいい思いもあった。だが、そんなことを冴子がするはずもない。なぜなら、彼女だって槇村の代わりに香を見守ろうとしているのだから。
「どうしてそう思う?」
「一緒にいないし、なにより、こんなに冷静ではないやり方は、香さんのことが絡んだときぐらいよ」
「さすがだな」
「麗香からも聞いていたし、香さん自身のことも心配だったのよ」


 実はつい最近、冴子は麗香から直接聞いていた。シティーハンターの依頼に協力した麗香から、その後になにが起こったのか。それは途中から愚痴となり、自分が決して撩のパートナーにはなれないという現実を受け入れられない絶望にも及んだ。麗香も本当は、撩が香以外を選ぶはずがないとは理解しているものの、そのチャンスがもたらされれば、逃がす理由はどこにもない。特に、香から直接ローマンを渡されたときはそうだ。依頼で麗香自身が撩の役に立ち、自分の方が解決に向けて動いているという自負があったし、依頼人の言葉もそれを後押しした。その後に渡されたローマンである、受け取らない人間がどこにいるのだろうか。だが、撩こそがそれを認めなかった。ローマンを持つのは香だけと言うのなら、撩はパートナーとして香しか認めないということだ。それを撩の口から直接言われてしまえば、麗香は諦めるしかなかった。
 その後、シティーハンターの二人が仲良くやっているのかといえば、そうではない。二人の間に距離が生まれ、端から見てもギクシャクしていることがわかった。今までならば、麗香はそこで撩の隣に滑りこもうとしたのだろうが、あの直後でそれをするのは滑稽すぎる。だから、麗香は二人の様子を見るに留めていた。それがどうだろう、距離はどんどん離れるばかりで、香から表情が消えていった。麗香が気になったのは、その点だった。


「撩、香さんとなにがあったの?」
 さすがに冴子は逃がしてくれない、撩はそう思う。なにがあったのか、それがわかれば撩もここまで悩んではいない。いや、撩が自分を誤魔化すために取ってきた態度が香を傷付け、気付けばそれが飽和状態になっていたのだ。決定的な理由など、どこにもない。あるのは、撩が香を傷付けてきたという事実だけだ。そして、これ以上傷つきたくない香は、心を凍らせることで自分を守ろうとした。自分が許されないのは当然で、でもこれからは自分の言葉を届けるから受け取って欲しい。そんな都合のいい願いを香が受け入れるはずもない。
 だが、撩は今回、香に本当の気持ちを言葉にして伝えていた。告げられた香は驚き、受け入れに窮しているようだった。どこまで伝わったのかはわからないが、耳に入れたことがまずは大切で、ここから関係性を修正していこう、撩はそう思っている。
 そこまでを冴子に告げるべきかどうか、どうしたら簡潔に言えるのか、それが撩にとって難しいところだった。
「なにが、っていうのはないさ。ただ、俺が自分を誤魔化していたら、香が先に決断した。それだけだ」
「香さんが決断? なにを決断したというの?」
「俺から離れるっていうことをさ」
 そう言ったあと、撩の目に不安の色が滲む。こんなにも凄惨な現場を生み出しておきながら、それは一人の女に対する不安から生じたものだというのか。言われたことと実際があまりにもかけ離れていて、冴子の中ではしっくりと事態がまとまらない。
「香さんがあなたから離れるって、別に今回が初めてじゃ……」
「だからと言って、槇村のもとへ行こうとするなんて反則だろ……」
 撩が片手を額に当て、目を閉じて俯いた。その姿からは後悔しか感じられない。そして、それを見聞きした冴子は、目を見開いた。
「つまり、香さんは、自ら死を望んだってこと!?」
「あぁ……」
 手のひらから零れ落ちる砂のように、目の前でこの世から零れ落ちようとする命を目の当たりにし、撩はなにを思ったのか。しかもその命は、撩が誰よりも大切にしたいと思っている存在のものだ。それなのに。
 冴子としても、この事実をどうしていいのかがわからなかった。自分は槇村ではないのだ。例え槇村なら怒りを持って撩を断じるだろうと思っても、冴子が同じように怒りをぶつけてもいい理由にはならない。
 それよりも、冴子は困惑を覚えていた。奥多摩での出来事の後、撩が香に対して少しずつ態度を変えていたのを冴子は知っている。なかなか気付いてくれない香に対して、撩は「今までが今までだから」と特に焦る様子はなかった。こんなに待たせてしまったから、香が受け入れられるまで待っている。その覚悟を撩は持っていたのだ。だがその一方で、依頼人に対してのちょっかいは止めないし、香を比較対象とした声掛けをすることは無くならなかった。そのことを香が、一体どう意味づけたのか。そして、なにを望んだから、死という選択を手にしたのか。
「そう……。香さん、一体なにを望んでいたのかしらね。そこが事態をほどく鍵なんじゃないかしら」
「香の望み、か……」
 幾度となく聞きながら、いまだにわからない香の望み。それを探さなければ事態は悪化するばかりであることは、撩も重々承知していた。





 撩が教授の屋敷に戻ると、香に対する処置は全て終了していた。大事を取って、今日は薬を使って眠らせているとのことだった。香が眠っている部屋へ行く前に、撩は教授に呼ばれて書斎へと足を運んだ。「失礼します」と入れば、教授は読んでいた本から視線を外して、撩へと目を向けた。
「戻ってきたかの、そこに座りなさい」
「はい」
 書斎内にある応接セットに二人が座ると、教授から話し始めた。
「香くんじゃが、命に別状はない。そして、傷跡については」
「どうなんでしょうか」
 撩は、それだけが気がかりだった。命に別状がないのはわかっている、あの香の身体に傷が残ることだけは避けたかった。自分が心をズタズタにしておきながら、それでも体に残る傷だけは嫌だった。
「ちょうどわしの後輩がやって来ての。運のいいことに、そういう傷跡の処置が得意で、そいつにやらせてみたんじゃ。……ま、ほぼ目立たないはずじゃよ」
 それを聞いた撩が安堵の表情になる。
「それじゃあ……。ありがとうございます」
 撩はどこまでも深々と頭を下げた。そして顔を上げると、今度は神妙な表情の教授がそこにはいた。
「教授?」
「わしは前に言ったはずじゃぞ、香くんの望みを叶えてやりなさいと。まだ見つけられていないとは。しかも、事態をさらに悪化させおって」
「はい……」
 撩には言い返すだけの材料がない。いや、その資格がない。教授の言う通り、香の望みがまだわからないのだから、なにもしていないのも当然だ。自分なりに見つけようと努力しているつもりでも、事態が悪化しているのは事実だ。
「撩、おぬしはどうしたいんじゃ」
 教授がそう聞いてくる。それは、香が繭に閉じこもってしまった当初に教授から投げかけられたものだ。あのときの撩は、自分が決断しなければならないと答えた。では、今はどうなのか。撩は真剣な表情で目の前の教授を見据えた。
「彼女を喪うのはごめんです。ずっと一緒にいたい、そう思っています」
「しかし、これまで一緒にいたとしても、おぬしは香くんを傷つけることばかりしていたではないか」
「そうですね、それは否定しません。そして、言い訳するつもりもありませんよ。ただ……」
 撩がそこで言いよどむ。きっと大切なことだからこそ、簡単に口にすることはできないことなのだろう。だから、教授は撩から言葉が出てくるまで、いくらでも待つつもりだった。撩が自分の中で想いをまとめるだけではない、誰か他者にその言葉を告げることが大事だと思ったからだ。
 そして、そこまでの想いを抱かせた香という存在に、教授は感謝したいくらいだった。これまでの撩の人生を考えれば、本能は否定しないが、願望は否認していた。女性が好きでも、親密になろうとせず一線を引こうとする。誰かとわかりあい、なにかをわかちあうことをはなから諦め、一人で生きることを敢えて選んでいた撩の前に現れた槇村、そして香。特に香は、槇村と違って撩と一緒に生活をし、彼のことを誰よりも近くから見ている存在だ。日々の生活を整え、撩が安心して過ごせるようにする。一見なんでもないようなことでも、実は撩にとって夢のような時間であるし、撩を特別視しない香の態度がよかったのかもしれない。一緒に過ごしていれば、心の距離も近くなるものだ。
「自分の想いは伝えたいと思います。自分がこれまでにしたことを思えば、すぐに受け取ってもらえるとは思っていません。けれど、言葉にしなければ」
「香くんに伝わることはないな。……いいと思うぞ、おぬしはいつも言葉が足りない。だから、ちゃんと香くんには言葉をあげなさい。おぬしの本当の気持ちを」
「はい、そうですね」
 撩は教授に言えたことで少しだけ肩の荷が下りたのか、ホッとした表情になった。





 部屋に入ると、香は静かに寝息を立てている。その眠りを妨げないよう慎重に歩き、ベッド横にある丸イスに腰掛けた。
 もう夜も遅い、僅かな月明かりが窓から差し込む程度で、部屋には明るさというものがなかった。これくらいの光さえあれば撩にとって十分であるも、もっとはっきりと香の顔を見たくて明かりをつけたくなる。だが、そうすれば香が目を覚ましてしまうかもしれない。彼女の眠りを妨げたくなくて、撩は気持ちをぐっと堪えたまま、じっと香を見つめた。
 こんなにまじまじと香の顔を見られるのは、一体いつぶりのことだろう。香が先に決断を下し、気付けば今はそれぞれの場所で過ごしている。例えそれが階違いだとしても、一緒の空間に住んでいた頃とはまるで違うものだ。香がなにをしているのかを把握できなくなったし、彼女がなにを考えているのか、それがわからなくなってしまった。香が撩を理解しようと頑張ってくれたからこそ、今までの関係が成立したに過ぎない。撩は香のことを見抜いていると思っていたが、それは自分の奢りが生み出した幻であった。香が心を閉ざせば、撩はなにもわからなくなる。それは当然のことなのに。


 かつての自分もこうだったのか、と撩はふと思う。戦場で生きることになり、育ての親を信じ、そして裏切られた。リハビリから回復した後は、海原を信じるようには誰も信じられなかった。信じられるのは己のみで、だからこそ銃の腕を磨いたし、必要なことはなんでも身に着けていた。仕事をこなしていくうちに裏の世界で一定の地位を得るようになると、今度は撩の腕を求めて人が寄ってくるようになった。それでも、撩は心を許すことはなかった。
 きっと、二度と少年時代のように傷つきたくなかったのだろう。あの裏切りを再度体験するのなら、心を許さなければいい。どんなに願っても手に入れられないものならば、心を開かなければいい。他者の評価などいらないし、そもそも他者の存在など関係ない。かつての撩はそう思っていた。
 これまで、人間関係を全く経験しなかったわけではない。かつての海原は撩を心から愛してくれたし、ゲリラから離れた際にはマリィーの父親には本当に世話になった。ケニーとソニア親子にも温かくしてもらったし、周囲は撩に人との繋がりを教えてくれていたのだと今ならわかる。とはいえ、特にケニーは自分が手を下してソニアを一人にしてしまったし、死神である撩が関わった人間は、その鎌で首を落とされることとなった。


 だからこそ、香は手放さなければならなかったはずなのに、それができない。兄の槇村を死に追いやった自分が、彼女の横で微笑んでいいはずがない。いくら奥多摩で香に気持ちを吐露したとしても、それは自分の決意表明であって、彼女に自分の気持ちを押しつけるつもりはなかった。香が自分を求めてくれるから、横にいることを許される。それは紛れもない事実で、これからもそれが変わることはないと撩は思っている。
「だが、香が消えようとするのなら別だ。どんなことをしても、消えてほしくはないんだ」
 例え香が消えようとしても、それを許さない自分がいることに気付いてしまった。槇村になど渡さない、香はこれからも自分の側にいる。自分の願望を認めてしまえば、そこに欲が絡みつく。心も体も雁字搦めにして、自分の側から離したくない。認めてしまえばシンプルで、実に奥深い願望だ。
「槇村が生きていたら、なんて言われるんだか……」
 自分と香のことを、槇村は認めるのかどうか。以前の夢で槇村は、撩がなにをしたいのかと問うと同時に、香にも願いがあるのだと言い切った。香が死を選んでまで叶えようとした願いが一体なんなのか、それがまだわかっていない。
「だが、俺から離れることが望みだったとしても、それを叶える気はさらさらないんだよ、香」
 自分の気持ちは固まったし、それを香に告げたつもりだ。だから次は、香の願いをすくい上げること、そのことに邁進すればいいのだと思っていた。





 眠っている香の中で、どこかから声が聞こえる。


 言葉ってね、すぐに消える儚いものなの。その言葉を心に留めて残しておくにはね、言葉とその人を信じていくしかない。でもね、優しい言葉の後、すぐにそれをひっくり返すような人だから、彼を信じちゃいけないの。その言葉がどんなに嬉しいものか、そう思うのに、同時に怖いのよ。喜んでいて、そこから突き落とされてしまうから怖い。彼に突き落とされる絶望を味わうのは、もういや。
 だから、今回も喜ばないの。彼の言葉を消して、なかったことにするの。


 ──嬉しいはずなのにね。





 ケガをした翌日、日の光を浴びた香は、ゆっくりと目を開いた。ここが教授の屋敷であることはすぐにわかり、そろそろと首を回すと、窓から丁寧に手入れされた庭が目に入った。ふとそこで、自分の腹部あたりに重みを感じた。これは一体なんだろうと、今度は逆に首をそろそろと回すと、そこには逞しい腕が投げ出されている。
「あ……」
 香の様子を見ていた撩が、香に体を預けながら眠っていたのだった。香から見えるのは後頭部で、撩がどんな表情をしているのかまではわからない。だが、どうしてこんなところにいるのか、香にはそれがわからなかった。眠るのならば、ちゃんとアパートに戻るか、せめて教授から簡易ベッドを出してもらえばいいのに。今からでもそう言おうと、まずは撩を起こすために手を動かそうとすると、その振動で撩の体がピクリと動いた。ゆっくり起き上がった撩は、香が目を覚ましているのを見て、安心したように微笑む。
「香、気分はどうだ? 痛むところはあるか?」
 撩はそう言うも、香はその質問の意図がわからないとばかりに表情を動かさない。
「別に、なにもないわ。あったとしても、撩には関係ないことだから」
「そんなことねぇだろ。パートナーの身体を知っておくのは、大切なことだ」
「だから、もうパートナーじゃないのに」
 これではまるで、これまでと一緒だ。撩は確実に香へ想いを投げ入れたはずなのに、香は全く変わっていなかった。もしかして、海原との対決後のように記憶を失ってしまったのか、それとも混乱しているだけなのか。そこがよくわからないが、撩がすべきことは決まっている。なぜなら、彼女を手放す選択肢は撩の中にもうないのだから。


 それでも、凍った心はなかなか溶けない。あのとき掛けた言葉がきっかけになるかと思いきや、ひっかき傷すらも与えていないことを実感する日々だ。教授の屋敷へ日参しては、いまだ変わらぬ香に撩の心はくじけそうになる。だが、そこで諦めるわけにはいかなかった。きっと今の自分は、かつての香だったはずだ。香の想いに応えようとせず、はぐらかし、優しい言葉をかけては突き放す。長年に渡り、香はそれを味わってきたのだ。贖罪とは思わないが、今からでも出来ることはやっていきたい。それが撩の正直な気持ちだった。
 しかし、目の前の香は変わらなかった。むしろ、今を維持しようとする香に愕然とし、次の一手を考えるのに悩んでしまう。いや、次の一手などあるわけがない。この世に香の心を溶かす効果的ななにかが存在するというのなら、撩はとっくに見つけて実行しているだろう。そんな手などないから苦しんでいるのだし、とはいえ、なにもしないわけにはいかない。自分の気持ちに正直になった今だからこそ、なんとかしたいと撩は思っていた。それを香に拒まれては、一体どうしたらいいのかがわからない。


 少しだけ逃げたくなった撩は、自分の思い通りに動かせるところから手を付けることにした。
 まず、香の部屋を401号室から客間に戻した。理由はなんだっていい、今回の傷がまだ心配だからとか言っておけばいいのだ。これで、香の動向を撩がより感じられるようになるはずだ。
 撩が物を移動させるために401号室へ入ると、そこはモノクロの世界であり、その無機質さに撩は驚いてしまった。もちろん、一回は入ったことがある。美樹から渡された食料を差し出して、精一杯の言葉をかけた夜だ。そのときも部屋の無機質さには気付いていたが、時が経った今でもその無機質さは変わらなかった。
 つい最近まで、こんな無彩色の中で生活をしていたとは、撩はかつての自分を思い出してしまう。槇村や香と出会う前は、街が無彩色に見えたことがあった。時に現実感を喪い、時に騒がしくとも街の生気を感じられなかった。そんな世界を香も経験してしまったということなのだろうか。





 やがて、香の体の傷が癒え、アパートに戻る日となった。香はアパートに戻ることを喜びもしなければ、嫌がりもしない。ただそこに戻るのが決まりであるかのように、香の意志はどこにも見られなかった。


 アパートに入り、撩、香の順で階段を上がる。さも当然のように401号室へと足を進めた香は、静かに扉を開けた。
 部屋の中をぐるりと見回す。数少なくても確かにここにあったはずのものたちが、今はこの部屋にはない。誰かの仕業に違いないと考えれば、犯人は一人だけだ。
 香がまた静かに扉から出ると、目の前には腕を組んで香を見つめる撩がいた。
「出てきたな。おまえの場所はこっち」
 そう言いながら、撩は親指で階上を指した。香からすれば、どうして撩がそんなことをするのかが理解できなかった。撩にとって邪魔な自分がせっかく客間を出たのに、どうしてそこへ戻そうとするのだろう。撩には自由が必要なのだから、自分が邪魔するわけにはいかない。
「あたしの場所はここなの。なにもなくてもいいわ、それじゃ」
 もう一度中に入ろうとした香を、撩は腕を掴んで引き止めた。
「おまえ、まだ十分に癒えてないって、わかってないのか?」
「そんなのどうでもいいし、あなたには関係ないはずよ、撩」
 どこか瞳孔が開いたような、人形のように何も思わない瞳のまま香はそう言った。


 これでは本当に堂々巡りだ。メビウスの輪のごとく同じことを繰り返すばかりで、撩と香は同じ場所から進むことができない。進展も後退もできないまま、ただ今のこの状態を繰り返すばかりだ。かつては進展を望んでいた香と現状維持を望んだ撩、今はその逆になったとしても、二人が動けないことには変わりがない。だからこそ、自分が今を壊さなければならないのだと、撩はどこかで覚悟をしていた。


 そして、その覚悟は思いも寄らぬ形で現実となる。


 以前のように同じフロアで生活をし始めても、それぞれが営む生活は別で、二つが絡まることがない。撩が香の分まで朝食を作っていたとしても、香はそれを食べようとはしなかった。物理的にはこんなにも近いのに、心理的な距離は、香が401号室にいたときと変わらない。いや、もっと遠くに感じる。どんなに撩が手を伸ばそうとも、香はその手を取ろうとはしなかった。無理矢理にはしたくないと思いながらも、撩は次第に焦り始める。そして、自分が思い込んでいた前提を振り返るのだ。
 彼女はあのときの言葉を本当に覚えているのだろうか。何を思ったのだろうか。
 香との関係において、撩は自分が決定的に言葉が足りないことを自覚している。香ならわかってくれるだろうという奢りがそうさせているのであって、今だからこそ誠実に向き合うべきだ。得意の行動面から香の心を溶かしていく試みは、次の展開を生み出すことがない。だったら、自分が苦手であったとしても、言葉できちんと伝えるべきなのだろう。そう思った撩は、客間の扉をコンコンとノックした。香はリビングなどで寛ぐことなく、客間に閉じこもって過ごしているのが主であった。


「香、ちょっといいか」
 呼び掛けても、中からの返事はない。眠ってしまっているのだろうかと静かに扉を開ければ、そこには鏡台の前にぼんやりと座っている香がいた。自分の鏡像と向き合っているはずなのに、香の目は何も映していないようだった。
「香、入るぞ」
 そう言って客間に入ると、撩は香の側に立った。話し掛けて欲しくない拒否は感じられないものの、目の前の香からは意志が感じられない。自分がなにを感じ、どうしていきたいのか。そういった香のコアとなるものが全く感じられず、撩はフッと不安になる。それでも、撩は香に聞かねばならないのだ。
「香、聞きたいことがあるんだが、このまま話すぞ」
 香が少しだけピクリと体を動かした気がした。何を言われるのかどうか、心を凍らせた香だって、それは気になるところだったからだった。
「おまえさ、俺が言った言葉をどう思ってるんだ?」
「言葉?」
 香はゆっくりと体を動かし、座ったままで撩を見上げる。その目には、以前に感じていた感情はなく、まるでガラス玉のようだ。だが、返事をしてくれただけでも大きいのだと撩は前向きに捉えた。
「そう、おまえがこの前捕らえられたとき、気を失うおまえに伝えたはずだ。その言葉をおまえ、どう思っているんだ」
 あのときの撩は、香に向けて言葉を呟いていた。それは決して長い言葉ではなかったが、自分の想いは込めたつもりだった。その言葉を彼女はどう思っているのか。
「別に」
「別に?」
 短い一言で済まされ、撩は納得がいかない。「別に」の後にはなにが続くのか、今はそれを知りたい。
「別に、すぐになかったことになるんだから。今までだってそうでしょう?」
 自分の態度がこの事態を招いたことはわかる。自分の言葉をすぐに変わるもの、信頼に値しないものだと思わせたのは、撩の責任だ。だが、香の命が懸かった場面で、翻す言葉など言うはずがない。クロイツ軍のときもこの前も、言葉にして伝えたつもりだったのに。
「言ってもすぐにはぐらかす、今回だって同じよ。だから、別になにも思わない」
「そう思いたいのか?」
「別に」
 なにを言っても「別に」で躱される会話に、撩が耐えきれなくなってきた。これまでの自分が悪いのであって香に非はないのに、香の返事に狭くなった撩の心はそう思えない。
 どうしてこの想いをわかってくれないのか。言葉にしても届かないのであれば、撩は一体どういう形で伝えればいいというのか。それがわからないから、人間は自分が得意な方法で伝えようとしてしまう。
 それが適切かどうかは別として。


 ガタッと大きな音がした後、ビリッと何かが破れる音がした。それ以外の音はなにもしない。言葉など交わされることもない。


 鏡台の前に座っていた香をベッドへ突き飛ばした後、撩はそのまま上に座るようにして動けなくした。シャツの襟元を掴むと、今度はそれを思い切り横へ引っ張る。圧倒的な力に逆らえず、三つばかり付いていたボタンは飛び散り、ベッド近くの床へ落ちた。シャツはそのまま引き裂かれ、二度と着られない状態となっている。
 下から現れたのは、あれほど夢見た香の白い肌だ。柔らかい肌へ引き寄せられると、撩は唇を押し当てた。全身でのし掛かるように香を覆い、撩は目の前の光景に没頭する。唇で触れた肌は、想像以上に滑らかだった。吸い付くようなそれは撩の唇を離さず、撩も舌をチロリと出して肌を舐め上げる。そのまま上がれば首もとへ辿り着き、食むように唇を動かした。


 現実を忘れるほどに没頭していた行為は、撩が香の顔を覗き込んだときに終わった。なにも感じていない、ガラス玉の目が変わることなくそこにあったからだ。


 自分の言葉も届かない、ここまでしても変わらない。どうにか香に証を残したくて体を探っても、彼女はなにも変わらなかった。結局、以前と全く変わらない。
 目の前の現実に戻された撩は、のろのろと体を起こしてベッドを降りる。そして香を振り返ることなく、そのまま部屋を去っていった。自分の寝室へと辿り着くと、その身をベッドへと投げ出し、はぁと息を吐く。そこには理解されない寂しさと後悔と、いろんな想いが込められていた。枕に顔を埋めながら、助けを求めて呟きたくもなる。
「いったいどうしたらいいんだよ、槇村……」
 そう言っても、香の味方である槇村から答えが返ってくるはずもなかった。





 撩が部屋を去ってからしばらく、香は仰向けのままぼんやりとしていた。
 一体なにが起こったのか、香にはよくわからなかった。撩に押し倒され、のしかかられる。ただ、あの唇と舌の熱さだけは、どこかリアルだ。
 それでもやはりわからなくて、香はいったん起き上がることにした。そこで初めて、自分の服が撩によって引き裂かれ、二度と着られない状態になっていることを知る。
 ふと床を見れば、そこには飛んだはずのボタンが落ちていた。これらは、さきほどの行為が現実であることを示している。


 では、体に這わされたあの唇や舌も。


「熱い……」
 香はそれだけ言って、落ちたボタンをじっと見つめていた。

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うーたん

Author:うーたん
好き勝手に書き散らかしておりまする。書いたお話は、まるで千歳飴(どこ切っても同じ)。タニシのようにひっそりと生息してたけど、只今休眠中。

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